don’t trust over thirty



もうすぐ30歳になる。この記事を書いている3日後に誕生日が控えている。
私の誕生日はといえば、基本的にはゴールデンウィークとかぶって一人で過ごすことが多かったし、メーデーだから労働が想起されるし、性豪加藤鷹氏の誕生日だし(加藤氏には非はないが私が一方的に劣等感を覚える)、例年なんとも嬉しい気持ちになりづらい日だったが、今年の誕生日は生誕30周年ということで嬉しくなさがひとしおだ。
※ただし私の初恋相手の小牧愛佳さんと同じ誕生日なのでその点のみは運命的で誇らしい。

人間突然30歳になるなんてことはなく、日々を30年間積み上げた結果の30歳であり誰に対しても等しい節目であるはずなのだが、いざ自分自身にそれが訪れると早すぎるし現実味がない。誰もが言うことだが、気持ちは20代で止まっていて年齢カウントだけが進んでいる。
しかし実際にはちゃんと世界は進んでいて、一緒に寝た女の子ら(寝ただけ)は出産報告をしてくるし、ハルヒの新刊は出たし、タマ姉は一回り下になった。時が進んでいないのではなく私が停滞しているのだ。見た目はおじさん、頭脳もおじさん、心は永遠の大学生。

10代の頃は30歳になるなんてことは想像をしていなかったし、大人になり社会人になって働くことはある種の死だとすら考えていた。当時の私は父が朝早くに家を出て夜に帰ってきてその繰り返しをしているのを目の当たりにして「人生とは一体…」と懊悩していたものだ。社会に出たくないあまり大学も留年した。(実際はただの単位取得の仕損じだが、まだ大学生を続けたいという深層心理の現れだったのかもしれない。)


don’t trust over thirtyという言葉を誰かに言われていたわけでもないが(ゴイステは聞いてた)、今思えば学生時代は大半の30歳以上の人間の言うことなんてただのノイズのようにしか感じていなかった。入ってくる情報を自分で取捨選択し、その上で自分で考え抜いたものだけが自分にとっての財産になると思っていた。
しかしいざ自分がその年齢になってみると、確かに知ったような口で10代、20代の若者に対してあれこれノイズを発したくなってしまい、まさに自分がなりたくなかったダサい30歳になろうとしている。若者が傾聴したくなるような何かを為してきたわけでもなんでもないのに。価値ある人間の言うことなんて周りが勝手に聞いてくれるので、自ら周りに言って聞かせるような話などない。
以前は好きなものに時間を忘れて没頭できて、とにかく吸収しようと意欲が無限に湧いてきたものだが最近では集中も続かず、好きでもない仕事のことが頭から離れなかったり、音楽も新しいものを発掘せず好きなものを繰り返し、漫然とゲームをしたり動画を見たりといった生活になっている。そんな人間の言うことに何の価値があるのか。昔のエロゲとNBAにちょっと詳しいだけのただのおじさんだ。


会社員として社会人をやっていると家族を持つこと、高い収入を得ることが社会人としての成功の指標とされがちである(前職でその風潮が強かったのでそういうイメージが定着してしまっている)が、結局のところ自身が幸福かどうかが全てだと私は考えている。
実際に家族を持ったり良い給料をもらうこと自体に喜びを感じることもあればそれによって社会的に安心を得ることに喜びを見出すということもあるだろうし、逆にそれらに価値を見出せないということもあるだろう。自分が本当に求めていることを理解し選択をすれば幸福度は上がるだろうが、心底では求めていない選択をすると時間の浪費にしかならない。理解はしていても行動に移すのは難しいところではあるが、実践していかねばこの今回のような「30歳になってしまった私…」を今後死ぬまで繰り返すことになり、話を聞くに値しないover30歳の大多数の一人になってしまう。

上述の通り今の私は30年間の積み重ねによってできている人間であり、積み重ね方を変えれば「私’」にも「私”」にもなり得たはずだ。そしてここからの積み重ねによって「私_ver2.0」になることはできても「私’_ver2.0」にはなれない。この30年間の積み重ねに意味はあったのだろうか、私がなりたかったのは私だったのだろうか。間違いなく分岐点は無数にあったのだが選んだのは自分自身だ。

うだうだと書き連ねたが、つまるところ私はこのままどこにでもいるような仕事の自分語りしか若者に対して話せないようなつまらない大人になりたくないだけだ。体力の衰えなどは避けられずともこれまでの30年絶えず何かしらを蓄積をしてきたように、これから何十年と新しい蓄積ができる。漫然と生きていくことは楽ではあるが、現状に納得はしていない。のちのち振り返って納得ができるような30代を送ろう、という決意表明。

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